no pencil no life

書いて考える

部屋を整理する計画

文章があんまりにもあんまりなので個人的に何か書いてみなくてはと思った。

なぜだか昔から私には、自分が文章がとくいなはずだ、という認識があった。算数が苦手だったり、姉が文章がうまかったりといったちょっとしたことが私の勘違いを作り出してくれて、「文系科目はデキる」というまったくの勘違いを足がかりに塾でバイトまで始めてそれがきっかけで今教育業界に関わっている次第なので、その勘違いはむしろラッキーだったと思っている。

ただ最近、自分が文章を書くのが得意でないことに気づいてしまった。というか、うすうす気づいていたその事実に向き合わざるを得なくなってきた。なにしろ書くことが仕事の9割近くを構成しているのだ。メールや報告のたぐいにとにかく時間がかかり、明らかに私の業務を圧迫している。文章を書くことのストレスが仕事そのもののストレスに、文字で人に伝えることのストレスが人間関係そのもののストレスになりつつある。

最近仕事のご縁でとても素敵な人にあった。彼女は2人の娘を社会に出して、会社を経営して、博士課程を取ろうとしている。休みの日のすごし方を聞くと、ばら色の頬で目をきらきらさせながら「勉強」と答える。具体的にいうと、「書いている」のだという。他の場面でも彼女は繰り返し「書くこと」の重要性を説いた。

考えていることは消えてしまう。書くことは必ず何かを生み出す。

素敵な人やアイディアに出会うとすぐに感動し極論に走りがちな私はすぐさま「紙とペンなしではもうなにひとつ考えるまい」と心に決めた。

その翌日、友達の死を知った。

大人になってからの友達は、学生のときのように毎日一緒にいるわけではないが、視野に入っていなくてもどこか別の道で自分と同じように進んでいてときどきその姿が見えると嬉しくて励まされる存在になっていた。自分の人生を生きながらも、それは友達の人生が描く軌跡とところどころ交差していて、失恋や就職、けんかなど共通の山や谷を越えて続く「わたしたちの」人生だと、思っていたのに、彼女はひとりでそれをやめてしまった。

私は書くのを止められない。なんどか死のうとしたことがあるが、とてもその近くにはいけなかった。実際にそれを達成するほどのつらいことが彼女の身に起こったということがほんとうにつらい。彼女にとってわたしたちの人生が何の影響も及ぼせなかったことがつらい。外国で、一人で死んでしまった。また会おうと言ったのに、帰ってきてくれなかった。大きな目で、歌うように話す、よく笑うのが彼女なのに、もう目を開けないし、しゃべらないし、わらうこともしないことにしたという。どうしてそうするのかも教えてくれないという。

私はこれからも続く人生のために部屋を片付けようとしている。何かを根元から変えたい。ここまで続けてきたインプットがもう満期に達している感じがする。ここまでとにかく読んできたから、これからしばらくは書く。溜め込んできたものは捨てる。どんどん空になるまで出して何が出るのかをみたい。いままでのような、相手に干渉しない植物的な人間関係をやめて、ぶつかったり救ったりしたい。それで失敗したとしても、こんな失い方をするよりはましなのではないか。