あなたは何によって覚えられたいのか part3
昨日の不安を自覚して、一日よく乗り切ったと思う。
お腹が痛かったことが原因なのではないか...
上司の状態がいいことも大きく作用している気がする。
人によって気分が落ち込むことがある一方で、
人によって救われることもある。
ここのところ一日の終わりに甥の写真を見ることが日課になっている。
すばらしいSNSというものを使って姉が毎日赤ん坊の写真を提供してくれる。
スターバックスの幸せコーヒー一杯400円とケーキ500円のセットにも匹敵するその幸福度を、毎日毎日提供できるのはものすごいことだと思う。
あなたは何によって覚えられたいのか、という質問について繰り返し考えている。
おとといくらいに、この質問に答えようとすることは「どうやって成功するかを考えること」だと書いた。
今日思ったのは、「共同体の未来を想像すること」とも同じだということ。
自分の将来を飛び越した、自分がいなくなった場所に、どのような場所であってほしいかということ。
働いている塾に、どんな塾として存在していてほしいのか。
目の前の子どもたちに、どんな大人たちになってもらいたいのか。
そこにどう関われるのか。関わりたいのか。
人は社会を通して人生を拡張することができる。
死んでも生きていくことができる。
愛情とか仁義はあたらしい形の生存戦略だったらしい。
そう考えると、父親はあながち死んでないのかもしれない。
探しに行かなくてはいけない。
というか、今探している最中なのだった。
私もまた私の人生を賭して彼の人生を拡張している。