no pencil no life

書いて考える

well-informed

っていい表現だと思う。

以下well-informedまでの道のり。

教育業界の基本のきを把握して継続的にアップデートするために知りたいこと

 

・主要な識者・論客

・歴史

・トレンド

・主要な大手

・主要な大手間の関係

・情報がうまいことまとまっているウェブサイト

・市場規模

・主な関連法律

・主な関連行政機関

 

まずはこんなものかな?

あなたは何によって覚えられたいのか part3

昨日の不安を自覚して、一日よく乗り切ったと思う。

お腹が痛かったことが原因なのではないか...

上司の状態がいいことも大きく作用している気がする。

 

人によって気分が落ち込むことがある一方で、

人によって救われることもある。

ここのところ一日の終わりに甥の写真を見ることが日課になっている。

すばらしいSNSというものを使って姉が毎日赤ん坊の写真を提供してくれる。

スターバックスの幸せコーヒー一杯400円とケーキ500円のセットにも匹敵するその幸福度を、毎日毎日提供できるのはものすごいことだと思う。

 

あなたは何によって覚えられたいのか、という質問について繰り返し考えている。

おとといくらいに、この質問に答えようとすることは「どうやって成功するかを考えること」だと書いた。

今日思ったのは、「共同体の未来を想像すること」とも同じだということ。

自分の将来を飛び越した、自分がいなくなった場所に、どのような場所であってほしいかということ。

 

働いている塾に、どんな塾として存在していてほしいのか。

目の前の子どもたちに、どんな大人たちになってもらいたいのか。

そこにどう関われるのか。関わりたいのか。

 

人は社会を通して人生を拡張することができる。

死んでも生きていくことができる。

愛情とか仁義はあたらしい形の生存戦略だったらしい。

 

そう考えると、父親はあながち死んでないのかもしれない。

探しに行かなくてはいけない。

というか、今探している最中なのだった。

私もまた私の人生を賭して彼の人生を拡張している。

 

 

ネガティブセンサーの話

朝起きられない!

 

何か失敗しているような気がする。

うまくいっている。仕事はとても穏やかで、ひとつひとつちゃんと片付いている。

もちろん日々課題はあるけれど、それ込みで順調だと思う。

だけどなぜか不安がある。これはネガティブ特有の、うまくいっているとむしょうに不安になる症候群だろうか。

一番へこむミスは人への配慮を欠いて起こる系のものなので、

どこか人の状況がちゃんと目に入っていないような感覚があるのかもしれない。

心を落ち着けてよく耳を澄ます。

あと疲れているという可能性もあるのでそこも気をつける。

 

書き始めてから、仕事はほんとうに書くことの連続だと実感する。

中身を確認せずにばああっ、と書き進めることができるようになった。

新しい。

あなたは何によって人に覚えられたいのか part2

実行力のない仕事相手の姿からたくさんのことを学ぶ。
私を見る他人の目はこんな感じなんだろうなという気がする。

 

話を聞いていると、
この人はなんのために自分の事業をやってるんだろう、ということが気になる。

どこかに素敵な理由が、その人だけの特別で尊い志が、隠れているという予感はする。
自分がしていることに愛情と誇りを持っていることは感じられる。
私にはその人が成功している姿が見える。その人にはその状況がとても似合っている。
今はただその状態が表出していないだけ。そういう感じがする。

 

あなたは何によって人に覚えられたいのか?

 

私は頭の中でその人に問いかける。
自分に問いかけても絶対答えが出ないと思っているその質問を投げかける。

その人もきっと自分では答えられないのだろう。
でも私にはその人が成功している姿が見える。
「何によって」成功するのか。それがわかればきっと。

 

何によって人に覚えられたいのか、という言葉は、
本質的すぎるから意味がわからなかったのかもしれない。
その言葉は、本質的でなく言うと、「何で成功したいのか」という意味なのかも。
「成功」をもう一段階噛み砕くと「人に覚えられる」となるのかもしれない。

その人は何によって人に覚えられたいのか。
私は何によって覚えられたいのか。

 

ところで、読むから書くへの比重のシフトに伴って

53冊の本を5000円で売った。吸収できなかった知識を思って胸が痛む。

読書のやり方を見直す時期に来ている。

うすうす気づいてはいたけどやっぱり心ですよね、ということを今日は書こうと思います。

 

和田裕美著「新・陽転思考」を読んでから作業効率が上がった。

作業効率を上げる系の仕事術の本どれを取ってもこのような上がり方をするものはなかった(私はこのたぐいの本をかなり読んできた)。

 

この本が示す思考法はとてもシンプルで、

曰く、「事実はひとつ、考え方はふたつ」。

 

事実をネガティブにとらえてしまうことが悪だと思っていたけれど、

考え方が暗い方向「ひとつ」なのが問題ではなかった。

むしろ考え方が「無限にある」ことのほうが問題なのだと、この本を読んでわかった。

ネガティブな人というのは、考え方が偏っているというよりは、偏らずに色々な視点でものを見てしまうが故に明るいほうにフォーカスできないという状態におちいっている方が多いのではないだろうか。少なくとも私はそうだった。

 

事実のとらえ方を「明るい」「暗い」の二者択一に持っていくことができれば、

明るいほうを選ぶのはそんなに難しいことではない。

 

とてもシンプルなので、この思考法は本を読んで1週間ほどで習慣化した。

コツはとりあえず「これでよかった」と言い続けることだが、そこらへんの詳しい説明は省略する。で、起点である「効率」話に戻ると、陽転思考で効率があきらかに良くなった。

 

こうなってみて初めて、これまで効率を悪くしていたものの正体が見えてくる。

それは「おそれ」だったとおもう。

失敗をしないように、なるべく行動を少なく。動けばぶつかる、ぶつかれば割れる、というのが、社会に飛び出して私が知らず知らず、しかし強烈に、学んだことだった。

 

動けばぶつかる、の部分は直せないが、ぶつかっても割れなければいい。ある程度のぶつかりを受け止める自信さえつけば動くのはとても簡単だった。

 

何しろぶつかっていいのだからその場その場でどうするか決められる。覚悟や諦めのプロセスがなくてもこれだけの作業ができるというのは私にとっては驚きだった。それだけ日々緊張して、失敗→絶望のループを積み重ねていたのだと思う。われながらここまでよくやったと思う...体調を崩す前に、このことが知れてよかった。憧れの職業を辞して尊敬する人に嫌われて今の会社に転職してそこでもかなり人に怒られたけれど、今知ることができてよかった。

 

これで完全に安定したかというとそういうわけではなく、周りの人間関係がぴりぴりしていると自分の感情も波立つのだけど、これはこれである程度はしょうがないかなと思っている。

私はほんとうに不機嫌な人間が苦手だ。正義であっても、いや、正義を振りかざしていれば尚更、嫌悪感で息苦しくなる。

しょうがないと思う。きょうだいにモラルハラスメントを受けて育ってきた。

あれはハラスメントというしかないと思う。私はそれに感情を明け渡してきたことをまだ許せていない。そのすべての瞬間において自分に非があると考え、ちゃんと傷つかなかったことを後悔している。

時々それに囚われて身がすくむ。PTSDというのか、この状態のままずっと生きている。

 

私の十代は本当に、本当につらいものだったけれど、

そのおかげで私は割と優しい人間になったと思うし、つらさが原動力になって人の心について多くを学んだ。

あんなに姉との関係に問題があったのに、どういうわけか特に年上の女性が私を好いてよくしてくれる。同世代とはまだうまく付き合えないけれど、特定の友達と仲良くしているから問題ない。

私は幸運だと思う。

あなたは何を以って人に覚えられたいのか

ドラッカーの言葉らしい。


質問として投げかけられたが答えることが出来なかった。私はそもそも人に覚えられたいと思ったことがない(忘れられたい、なら何十回もある)。

 

もちろん人に覚えられていたらそれなりに嬉しい気はする。
ドラッカーがそういうことを言ってるのであれば、私は人に覚えられる喜びをもっと味わってもいいのかもしれない。味わえば味もしめる。覚えられたくなる日が来るのかもしれない。

 

何を以って人に覚えられたいか。
他人が私を思い出すとき、何を脳裏に浮かべるのか。

そもそも私は思い出の中の人間を評価する習慣がない。
だから他人が思い出の中で私に対して下す評価に興味が持てないのかもしれない。
現実に影響を及ぼさない限り、評価は100パーセント他人のものだと思う。
評価の原因も結果もその人の中で完結してしまい私の元には届かない。

もし私が死んだとして、その後誰も思い出さなかったら。
死と同時に私の記憶がこの世から消え去ってしまうとしたら。
それは誰も傷つけない最良の去り方のような気すらする。
もちろんまったく悲しくないわけではないけれど、
自分が死んだあと誰かが悲しむほうが悲しい。

何か事を成そうとするひとたちの、
覚えられたいという衝動はどこから来るんだろうか。